伊賀市(歴史)概要: 天武天皇9年(680)、伊賀国が立国すると当地域がその中心となり柘植川右岸には国府の政庁が設けられました。政庁の南方には一宮とされる敢國神社が勧請され、さらに南方には国分寺と国分尼寺が建立、以来、国都として政治、文化の中心として発展しました。室町時代以降も伊賀国の中心だったとされ古くから開かれていた平等寺が安国寺(現在廃寺)に定められ府中には守護所が設けられました。守護職には仁木氏や千葉氏などが歴任し戦国時代には国人領主が割拠して治めるようになります。このような政治状態だった為、各国人領主やその家臣達は自らの館の周りに土塁や空掘を設けて武装化し私兵集団が技を競い合いやがて忍者集団となり大きな影響力を持つものも現れました。
織田信長が台頭してくると、信長の次男織田信雄が伊賀に侵攻し、「天正伊賀の乱」と呼ばれる伊賀国人領主達の騒乱を押さえ込み織田領になっています。豊臣秀吉が台頭すると上野城には筒井定次が20万石で入封、さらに定次は関ヶ原の戦いで東軍として従軍した為、伊賀上野藩を立藩し初代藩主となっています。慶長13年(1608)、家臣同士の権力争いから定次の管理能力が問われる事になり伊賀上野藩は廃藩、領内は藤堂高虎が藩主を勤める津藩領となります。伊賀国を一国として見られた為、上野城が認められ、さらに大坂城に備える事で一大要塞が築城され城下町の整備も同時に計画されました。以後、津藩領として藤堂家の支配で明治維新を迎え、旧城下には藩校:崇廣堂や菩提寺である上行寺、松尾芭蕉の出身地という事で生家や故郷塚などの史跡が点在しています。
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